こんにちは、スギさんです。
まずは家探し!ではじまったマニラ生活 でしたが、
その8回の引っ越しの様子を簡単に。
クバオ
1番最初は日本で知り合ったフィリピン人女性に紹介してもらった彼女のお母さんとルームシェア。
フィリピン人4人家族が借りている家の2階の1部屋を友だちのお母さんとルームシェアというまた貸し状態。長屋の1部で1階がキッチン、バスルーム、リビングで2階が2部屋あるタイプ。
最初から住むところが見つかるまでということで紹介してもらっていた。たぶん2週間くらいの居住。
ここはメトロマニラの中のケソン市の中でも大きなCubao と呼ばれる街。モハメッドアリがフィリピンで対戦をおこなったときのスタジアムが当時はあり、現在も名前だけ残っているアリモールのアリはここに由来している。
語学学校もここから通いだした。
サンパロック
初めてフィリピンに来た時に紹介されていた日本人と、行く予定の語学学校の生徒が2人住んでいた。下町のザ長屋のようなところで、4畳半くらいの部屋にキッチントイレがついていた。
ここはフィリピンに住んだ中で最も汚くぼろかった。これからの生活でどのくらいお金が必要になるかわからなかったので、とりあえず安さ重視。電話は共同の電話が長屋の中にあるサリサリストアと呼ばれる雑貨屋さんの中にあるだけ。
2年前になんとなくの記憶をたどって、約20年ぶりくらいにたどり着いて感動した。そのまんまのぼろさであった。またすぐ裏手に線路があり、当時はスクオッターと呼ばれる不法占拠者たちの家がずらーっと並んでいたところはすっかり撤去されていた。
この長屋に100名は超えるフィリピン人が住んでいた。トタンにトタンを重ね、どこまでが誰の入れかわからなかった。また6畳くらいの部屋に4人家族が住んでいるなんてこともざらであった。
カオス、としか呼びようのない空間に住んでいたが、なんでもありの気楽さが結構気に入ってもいたし、学校までジプニーで20分くらいで行くこともできた。
しかし、なにぶん携帯のない時代に、共同の電話ひとつで生活しなくてはいけなかった。こちらからかけるのも気を使うが、かかってきても英語が通じない、勝手に切られる、呼び出してもらえない、ということで引っ越しをすることになる。
Project 4
タガログ語を学ぶために通った語学学校の先生夫婦が、奥さんの実家が経営するアパートに入るにあたりシェアしないかといわれ、引っ越しをそこにすることになる。
up and down と呼ばれる上下2階で1軒の1部屋。新婚夫婦は真面目なクリスチャンで華僑系のフィリピン人だった。
部屋も広くて15畳くらいのスペースをひとりで使わせてもらえた。電話も、奥さんの実家がその長屋の隣にあり、自由に使わせてもらえた。もちろんお手伝いさんが、ご機嫌よろしく呼びにも来てくれた。
しかし新たな問題が起きる。そのころつき合いだしたフィリピン人の元ダンナを泊めたことで、出ていけといわれる羽目に…保守的な、敬虔なるフィリピン人は結婚もしていない若い女の子のところに男が出入りするのは許せなかったらしい。
VLuna ave. ケソン市
サンパロックに住んでた時に、日本からフィリピンに来た日本人女性を泊めていた時期があった。その後その長屋に住んでたフィリピン人家族と家をシェアしていた。しかし共同生活に疲れてきており、じゃあ、一緒に住もうか、ということになる。
当時、付き合っていた元ダンナの実家の近くで、交通の便もよく、ほど良く緑もあり治安もいいケソン市。いわゆる2LDKタイプのアパートを彼女とシェアする。
やはり年の近く、気の合う日本人女性とのシェア生活は楽しく気楽でよかった。が、元ダンナと結婚することになり、同居解消に至る。で、次が新居探しに…となる。
リベルタッド パサイ
当時、マカティと呼ばれる商業地区で仕事をしていたため、渋滞に巻き込まれないよう仕事場に近いところに住むことにした。
職場への近さを考えて、パサイ地区にしたが、この地域はかなり治安が悪かった。
最初のサンパロックと似たような古い下町である。同僚のフィリピン人が職場まで乗り合いジプニー1本で来れて楽だよ。市場も近いし、便利、ということばを信じてこの地域に決めたが甘かった。
この頃、携帯が出回りだしたが、平野ノラがネタで使っているようなショルダーバッグに電話の子機をくっつけたようなサイズだった。
この大きな携帯を家電として使えるように友人が貸してくれた。これによって電話の問題は解消されたが、盗難があったり、隣のパキスタン人がうるさかったり、火事が起きたりなど続いた。
ここで子育てをする自信がなくなり、元ダンナの実家の近く、ケソン市に家を探すことになった。
その時盗まれたものは干していた洗濯物(Tシャツ3枚)、卵だから可愛いと言えば、可愛い盗難騒ぎだった。
ケソン市のシカトゥナ ビレッジ
ケソン市のシカトゥナビレッジは閑静な住宅地。
この頃、仕事を完全なフリーの通訳と翻訳の仕事のみにして、渋滞の中を仕事に行かなくて済むようにした。そして引っ越しは生まれてくる子どもの予定日の2週間ほど前。
3階建ての家の半地下、1階、3階を部屋貸ししており、2階部分に大家さん一家が住んでいた、大きな家である。
当時は10家族以上がこの家に住んでいたため、かなりの大所帯。引っ越し当初は1階の8畳ほどの部屋に住み、のちに3階に移る。
1階はトイレ、キッチン共同。3階は完全に自分のところだけで使っていた。
この1階の部屋で、娘を自宅出産することになった。詳細は別記事にて書くとするが、2ヶ月くらいしか住まなかったこの部屋の思い出はずいぶんとある。
3階は、15畳くらいの寝室とリビング、そしてその居住空間の3倍くらいのベランダがあった。共同の洗濯干し場にもなっていたが、基本的には我が家のもの同然。電話も共同だが、3階についているので、自分のもの同然。
もともと大家さんの母親の夢の家だったらしく、一番上の屋根はモスクのようなデザインであった。また3階は居住目的ではなかったとみえ、壁はほぼなくすべてが窓。すぐ裏手がパン屋さんだったので、毎日明け方からパンの焼ける香りで目が覚め、風が通り抜けていく家であった。
2年前に訪れると、もうひっそりしていた。
たまたま前の家のおじさんが出てきて覚えていてくれた。大家さん一家はアメリカにうつり、その甥っ子が一人で暮らしているそうだった。家はさびれ、人の気配もなくすっかり変わってしまった家になっていた。
私の人生の転機となった家がそんな状態になっているのは少し寂しく感じた。
ベターリビング ビクータン
ちょうど出産をしたあたりから、マニラの日本人学校に通うハーフの子どもたちの土曜日本語クラスを教えるようになった。
父親は日本に住んで、数ヶ月に1度会いにやってくる子どもたちは日本語があまり上手ではないため、補習授業をしていた。そのボランティアである。
その延長で、ハーフの子どもたちの集まれる場所をつくろうということで日本人学校の近くに家を借りることにした。
ちょうどこのときの引っ越しは、私がテレビの取材を受けている中で行われた。
庭付きの1戸建て平屋。ブランコがあり、門の横にはブーゲンビリアが植わっていた理想的な環境だが、水は皆無。週に2-3回水屋さんにきてもらい、家の外のタンクからバケツその他に水をいれてもらって購入する形であった。水道自体がまだ設置されていない地域。
ハーフの子たちの日本語の家庭教師をしたり、通訳、翻訳の仕事をして生活していたが、ダンナとの生活が完全破たんしたのもこの時期。
そんな時期に出会った日本人女性で、同じくフィリピン人と結婚をしてやはり破たんしつつあった人と出会い、意気投合。一緒に暮らすことになる。
サンバレー ビクータン
元ダンナにはもう日本に帰るから、と宣言をして実のところ彼女と一緒に暮らすことにしていた。
娘とお手伝いさんを連れていき、彼女は息子と彼女の父とお手伝いさんと子守とドライバーをつれての共同生活が始まった。
教会と大きな公園の前の大きな一軒家で、8人が住んでも使っていない部屋があるほどの古い豪邸であった。
子どもたちものびのび、お手伝いさんがいてくれるので、保育園がなくても子どももみてもらい、家事をしてもらい、非常にある意味贅沢な生活をさせてもらった。
これもひとえに一緒に暮らしていた日本人女性が、日系企業でバリバリと働いてくれてるおかげであった。
そして日本にビザの関係で一年に一度帰国していたが、その際に日本で大学院で再度勉強できることになり、フィリピンを撤退することを決心して、この生活も終了となった。
まとめ
最後までお読みいただき、大変ありがとう。
それぞれの場所で、いろんな事があり、また別記事でネタ紹介していくことにする。
引っ越しのつど、いろんな人と暮らし出会い、たくさんの喜怒哀楽を経験した。若さゆえの無茶や意地もあり、ずいぶんとしなくてもいいことをした気もする。
でも、そんなことがあったからの今である。そしてこんなことをしてきてたくさんの助けや愛情をもらってきた。だから私のフィリピンへの愛情は、いまだこんなに変わらない。
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