フィリピンに住むことを決めてから2つ目の場所は
サンパロック。
ここから本格的なフィリピンライフがはじまった。
これは、まだポケベルが出回りだしたころ、1993年ころのお話し。
23歳、絶対的な何かを身につけたくてしょうがなかった。
アタシにしかできないことがあるはず。
何ができるかわからないけど、
この世にはきっとワタシにしかできないことがあるはず、
それを探したくて、じりじりとしていた。
つっぱることが男の勲章
今日から俺は!! をご存じだろうか?
携帯もネットもラインもない時代のマンガの実写化で
リアルな世代として面白く観ていた。
良い子と不良は住み分けていて、
意味不明な仁義があった時代。
みんな違ってみんないい、なんて言われない。
四当五落、
つまり4時間睡眠なら合格で5時間睡眠なら不合格、なんて言われて
受験戦争をこなしていった世代だ。
男の勲章を目指さないなら、
少しでも高い偏差値の学校に入ることを目指さないといけない気がしていた。
大学時代はバブル世代で、
女子大生ということでちやほやしてもらった。
同級生は、まだ景気のよかった時に
大手企業に就職を決めていった。
私は、どうしても周りと同様に就職活動をする気になれなかった。
日本で働いた1年は
アジアからの就学生のための寮と地元の子どもの学童保育指導員。
やりがいはあるが、未来を感じられなかった。
それ故に、フィリピンまでやってきた。
無益な毎日
とにかく流れを変えたかった。
自分の人生の流れを変えたかった。
親からも自分を取り巻く社会からも、切り離してリセットされたかった。
でも同時に、リセットして何をどうしたいのかわかっていなかった。
ただ、痛烈におもっていたのは
アタシにしかできないことはなに?
という問い。
個性が欲しかった。
唯一無二になる何かを手に入れたかった。
じりじりと焦燥感だけが私を支配していた。
タガログ語を話せるようになって、
あと何が出来たら、アタシは迷わなくなる?
そんな自問自答しながら、
必死でタガログ語を学んだ。
私はフィリピン人になりたかった。
なんの特技もない日本人の自分に焦っていた。
でもね、焦っていた割には大したことをしていたわけではない。
有益か無益かでいえば、無益な毎日。
単純にお金はまったく生み出さない日々。
インプットしていたのは日々、自分の語学の勉強。
平日は学校と予習と復習の自習でインプット、
近所の子どもや市場に言ってはアウトプットの日々。
金曜の夜にはライブハウスに通う、
ニートな毎日とも言えた時期。
お金のブロック
昭和一桁の生まれの両親は、共に奨学金をとって、
その時代には珍しい大卒だった。
母も戦争を知っている世代で、
女子大で英文科卒という、努力した人だ。
子どものころから、お年玉は図書券だった。
おまけに、図書券でマンガは買えないと教えられ、
高校生になるまで信じていたくらいだ。
だから、ひとり暮らしをしても
贅沢はしてはいけない。
お金を使うこと=浪費、のイメージがあった。
ゆえに、円がペソに対して強くても、
お金を得ることに罪悪感が、知らない間にあった。
それ故に、アルバイトの話がきても
お金をもらうことに抵抗があった。
貯金を切り崩して生活しているのに、
マニラで日本人という有利な切り札も上手に使うこともしなかった。
だから今、海外にインターンをしたり、
ネットで情報発信をしたり、
そのことでマネタイズをしている若者を尊敬する。
フィリピンのボブマーリー
学生時代にフィリピンに2度ほど来た時に連れて行ってもらった
フィリピンのレゲエバンドのライブ。
完全に住むようになったころ、
登竜門の小さなライブハウスは満員にするようになり、
商業地区のマカティの小綺麗なところで演奏するようになっていた。
ココジャム。
そのボーカリストはドレッド頭で、フィリピンのボブマーリーと呼ばれていた。
もともとボブマーリーが好きだった私は
このココジャムのライブに毎週通った。
もう、この時期の一番幸せな時間だった。
フィリピンにはバンド演奏のあるレストランが無数にある。
シェーキーズのようなピザ屋さんから
フードコート、ライブハウス、ホテルのラウンジなどたくさんある。
ありとあらゆるジャンルの生演奏が、
安価で聞ける。
当時、レゲエといえば
CocoJam かTropical Depression が 1番人気であった。
ボブマーリーやエリッククラプトンのコピーとオリジナルの演奏2セットが
金曜の夜のお楽しみだった。
毎週通うと、バンドのメンバーとも仲良くなり、
その取り巻きとも仲良くなっていった。
リゾート地でのコンサートになるとその取り巻きたち御一行様でツアーだ。
私はボーカルがもろタイプだったのだが、
彼は結婚していて、可愛い赤ちゃんもいた。
なので、ただのファンであったのだが、
その横にいたベーシストが私を気に入った。
年齢も離れている彼をやんわりとお断りしながらも
毎週バンドは観にいくので、
アタックはされ続けた。
まったくのアウトオブ眼中だったのだが、
あるとき、みんなが行く予定だったツアーに私がドタキャンした時の
落ち込み具合があまりにもひどくて、可哀そうな様子を醸し出したのだ。
そこでおもわず、
じゃあ、帰ってきたら、デートをしてあげるよ、と言ってしまった。
そこから勢いづいた彼にアタックされ続けて、
ついに私も恋に落ちてしまうことになるのだ。
これ、たぶんフィリピンに来て半年くらいのころ。
地上の楽園をめざして
3ヶ月のタガログ語コースを終えて、あとはとにかく使っていくばかり。
予定外のフィリピン人彼氏まで作ってしまったからには
この国で住んでいくための術を身につけないといけない。
でも、ここでもアマノジャクが発揮する。
ここで日系企業に就職したら、なんでわざわざフィリピンに来たのかわからない。
だからといって、起業するだけの資本も知恵も人脈もなかった。
日本語学校でネイティブの日本語チェックする人探しているらしいんだけど、
やらない?
と聞かれ、いーよーの安請け合い。
月曜から金曜の1時から5時まで。
中国人おじいちゃん先生の翻訳のネイティブチェックと、
日系企業で日本語教えるフィリピン人の先生の日本語チェック。
3,000ペソ。当時で1万5千円ほどだ。
お金のブロックかかってるから、
もらえるだけありがたい、という発想。
そして、週末リゾート地での彼氏のコンサートに付いていって
ビーチを楽しむ毎日。
こんな日々は長くは続かない、とどこかで思いつつ、
もしかしたらこれは地上のパラダイスかもと少しおもっていためでたい人。
まとめ
子どもの数がまだ多かった世代で
私はときどき大量生産されるパーツのひとつであるようなことに
痛みを感じた。
強烈な個性が欲しかった。
つっぱりが廊下のガラスを割っていくような強烈な行動に
心が惹かれた。
同時に、そんなことが意味をなさないことも、
そのあとに引き換えに起きることを想像すると、
おとなしくしておく方が賢いこともわかっていた。
だから、フィリピンに向かい、タガログ語を学んだ。
学ぶことで、アタシだけのものに出会えると信じた。
そして今、私はタガログ語の通訳人だ。
アタシにしかできないことを今も追い求め続けている。
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