ルームメイトはフィリピン人ママ

フィリピン

フィリピンにしばらく行ってくる!と

決めて日本をでたのが、

1993年2月25日。

フィリピンとのなれそめ で書いたが、

70万で、何ヶ月ここに住めるだろう?という

挑戦の始まりでもあった。

出会いは空港で

マニラに住んでいた知り合いは、

到着前に連絡が取れなかった。

たまたま知り合ったフィリピン人の子が

ママのとこに住んだらいいよーって直前に紹介してくれた。

いや、厳密にいうなら、

そういってくれただけで、一度も会ったことないまま

ママの写真だけ渡されて、マニラに向かった。

ネットもSNSもない時代、

国際電話だって高い時代だ。

フライトの日時を伝えただけ。

友だちはママに伝えたから大丈夫っていってくれたので、

それを信じるのみ。

最悪、会えなかったら、

悪名高きNAIAのぼったくりタクシーでホテルに向かうか、と覚悟。

現在はフィリピン空港やLCCは別のターミナルになっているが、

当時は国際空港は1つだけ。

ごった返す到着客の駐車場手前のエリアで30分くらいウロウロ。

すると預かってきたママの写真をもつフィリピン人女性が、

Are you Sugi?

と近寄ってきた。

そして見せられた彼女の娘、私の日本にいる友人の写真で確認しあい、

無事奇跡的に?会えた。

4畳半ひと間に

そのまま、彼女が借りてきた車に、

ドライバーさんと一緒に荷物を載せる。

といっても、その時の荷物は山登りするようなバックパックとボストンバッグがひとつづつ。

たったそれだけの荷物で、数ヶ月住むつもりなんだから、我ながら大したもんだ。

もともと、空港より南の方のエリアに住んでいるが、

私の学校の近くに住んだ方がいいだろうと、

知り合いの家の一部屋を借りてくれたらしい。

 

ということで、

その日から、フィリピン人ママと、もうひと家族4人と計6人で共同生活。

ルームメイトは当時50代くらいのママだ。

アパートはup and down と呼ばれる

上下2階で1軒の家。

このタイプは、入り口入るとすぐにリビングで

奥がダイニングキッチン、突き当りにバスルーム。

階段あがって2階に2部屋。

長屋のように両隣くっついているので、

窓があるのは玄関側と奥の壁側のみ。

プライバシーなんてものは皆無で、

朝起きた時から誰かがいて、

出かけるときはどこいくの?

買い物して帰ってきたら、どこで何買った?いくらした?と

聞かれる毎日を送る。

 

語学学校に通いはじめる

フィリピンについて翌日には語学学校に行ってみる。

ネットがない時代、

とにかく行ってみて現地で申し込む、という手段しかなかった。

住所を頼りに、乗り合いジープを乗り換え向かう。

当時はNGOと呼ばれる民間の団体や

カトリックのシスターたちのボランティア活動が活発であった。

このシスターたちのすごいところは

派遣された先で貧しい人たちの生活の中に入って溶け込むために

言葉をまず最初に学ぶのである。

そんなシスターや神父さんたちのための語学学校に私は申し込んだ。

3ヶ月の初心者向けタガログ語コース。

毎日、文法、会話、会話の3レッスン、マンツーマン。

毎日違う文法内容なので、午前中のレッスン終わってからも

翌日の予習当日の復習で、アップアップ。

家に帰ると、だれかれ構わず話しかけてくるので

学校の帰りに、フィリピンのマクドナルド、ジョリビーに寄って勉強。

語学は最初に文法事項を叩き込むと

あとあと楽なことがわかっているから

とにかく基本を身体に沁みこませる。

ひとりの時間が欲しい

周りがフィリピン人ばかりなのは

タガログ語を学びたい私にはうってつけの環境。

でも、四六時中話しかけられるのは、

ちょっとしんどい。

ましてや、寝る部屋の中でも、だ。

それも、よく知らない人!

ということで、

唯一の日本人の知人をたより、

彼の住んでいた長屋地域に空きが出たときに

引っ越しをすることにした。

やはり、ひとりの時間が私には必要。

クバオってこんなとこ

モハメドアリが死闘を繰り広げたことで有名なアラネタ コロシウムがあるのがクバオ。

Cubao と書きます。

フィリピンにエリッククラプトン初来日したとき、

たしかここでコンサートして、

豆粒のような彼を見た記憶があります。

ショッピングモールがたくさんあり、

モノレールの駅もあり、

大きなバスターミナルや市場もある、大きな街です。

当時の強烈な思い出といえば

上下2階のアパートで住んでいたので、

夜中にトイレに行きたくなると階段を下りていかないといけません。

ルームメイトのママは

バケツを部屋に置いて、

夜はここでしたらいいからね!と言われました。

実質、ママは夜中に起きて、ここでトイレをしている音が聞こえましたが、

私はどうしてもこれができなくて、下まで降りていました。

ママには、何度もここでしていいのよ!と言われましたが、

人が寝ている横で、なんの仕切りもないところでしゃーっとするのは

どうしても抵抗がありました。

もう一つの思い出は、

当時、映画ボディーガードが流行っており、

住んでいたおうちの娘たちがこぞって

朝から晩までずーっと歌っていて気が狂いそうだったこと。

まあ、そのおかげもあって下の娘ちゃんは

テレビの歌のコンテストで優勝して、賞金もらったようですが。

朝から大音量で音楽がかかり、熱唱されるのは辟易とした。

まとめ

実質このクバオに住んでいたのは1ヵ月足らずかとおもうが、

鮮やかに思いだせるのは

ここから私のフィリピン生活が始まったからだ。

今でも、この付近を通ると

見るものすべてがわくわくさせてくれたあの頃に戻れる。

少しばかりの不安と、これからへの期待。

未知への言語に対するどきどき。

街はどんどん新しくなり、私の知っている街ではなくなりつつあるが、

郷愁というものは不思議で、その空気感が私を振り向かせ、

そしてあの頃の私より、成長してる?と

過去の自分が問うてくる。

だから背筋を伸ばして、前を向いて歩いていこうと気持ち新たにするのである。

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